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金村修ワークショップ 企画展

Toshi展 第三病棟

 

2022年8月9日~2022年8月20日 

ALTERNATIVE SPACE“The White” (東京)

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金村修ワークショップ 企画展は、2021年の金村修ワークショップに参加した受講生の中から「ぜひこの人の個展を見たい」と講師が認めた者の展覧会です。

*金村修ワークショップは、金村修氏、小松浩子氏、 タカザワケンジ氏が講師を務める写真と表現

 のワークショップです。

 Osamu Kanemura Workshop (kanemura-osamu.com)

■Essay

 

写真が芸術であるならば
~Toshi「第三病棟」によせて
タカザワケンジ

1890年代、留学していたドイツからアメリカに戻ってきた頃のことを、アルフレッド・スティーグリッツはこう振り返っている。
「私の写真を見た画家たちは、私をうらやんだ。しかしこうも言った。あなたの写真は私たちの絵より優れているかもしれないが、残念ながら写真は芸術ではないと。機械で作られたものだからという理由で写真が批判されるのはなぜなのか。彼らの『芸術』である絵画は、手で作られたものだが、だからといって必ずしも優れているわけではない」(*)
スティーグリッツの生涯は写真が芸術として認められるために捧げられた。ヨーロッパの印象派やピカソをアメリカに紹介し、芸術についての古い価値観を刷新しようとしたのもそのためだ。
芸術とはそもそも何なのか。晩年のシリーズ「Equivalent」についてスティーグリッツはこう語っている。
「私の雲の写真は、私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学に相当するものだ」。
作家、編集者、写真家でもあり、スティーグリッツと深い交流があったドロシー・ノーマンは、この言葉を紹介した後にこう記している。「やがて彼は、自分のプリントはすべて等価であると主張し、ついにはすべての芸術は芸術家の最も深い人生経験の等価物であると言い出したのです」(*)
予備知識なしに見れば「Equivalent」は空の写真であるとしか言いようがない。そこに作者の人生経験や哲学が反映されていると言われても、にわかには理解しがたいであろう。おだやかな空もあれば、暗く底光りするような空もある。それが作者の内面、生きてきた人生のリアリティだといえば、そのような気もするし、そうなのかと疑問も感じる。
しかし、絵画がモティーフを描いただけでなく、ある概念──たとえば神への愛や世界の不思議さ──を表現したと考えれば、写真もまた写っているものの先に何かがあるという主張は筋が通っている。スティーグリッツの人生哲学を私たちが正確に把握できなくても、その写真そのものから何かを受け取ることができれば、それはたしかに非言語的な交流と言える。
写真も絵画と同様に対象を通して言葉に還元できない何かを表現できる。人の手によるものであれ、機械が写しとったものであれ、見る側が何かをくみ出せるならそこに優劣は存在しない。それどころか、機械がつくりだすイメージには人智を超えた偶然を取り込めるというアドバンテージがある。
しかしそもそも「私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学」は、芸術としての写真に本当に必要なのだろうか。私たちは「Equivalent」を見て、スティーグリッツという個人の営みに感動しているのだろうか。
Toshiという作家は名前からして記号的であり、個人の人生を想像するのが難しい。私が知っていることだけを挙げても、女性である、北海道在住であるということくらいだ。
しかし彼女の写真は大量に見てきた。ワークショップのテーブルいっぱいに並べられた写真に写っていたのは、言葉にすれば荒涼たる風景であり、錆びついた鉄塔であり雪であり、曇天の空でありくすんだ色合いの団地である。
写っているのがどこかはさほど重要ではない。Toshiによって選択された場所であり、その選択は直感的、瞬間的に行われているということだけがわかれば十分だ。それが作品であるならば、私たちは写真家の直感が何を見いだし、どのような世界を作ろうとしているかを見なければならない。
Toshiの写真から、日本経済の落ち込み、地方の経済破綻、社会全体を覆う鬱的な精神的不調といった、現在の私たちを取り巻く残念このうえない状態を重ねて見ることもできるだろう。
しかし、だからといって地方の現実を告発する「社会派」の写真などに収まってはいない。むしろフレーミングすることで現実から離れ、ここではないどこかの世界を示唆する写真に見える。たとえば『ストレンジャー・シングス』における「裏側の世界」である。『ストレンジャー・シングス』の舞台が都市から離れた地方であり、1980年代の冷戦末期、ソ連からの攻撃を恐れる心理的不安を背景にした「もう一つの世界」であるように。
では「第三病棟」とは何か。三というからには一と二があるのだろう。そして、一と二は明示されず、病棟そのものが物質的な場所を指してはいないようだ。そこで写真を見る私たちは、写っているものを手がかりに第三病棟を想像する。写真に写った世界の向こう側、あるいは裏側を想像するのだ。そのとき、病棟にとらわれているのは、ほかならぬあなた自身であることを発見するだろう。(写真評論家)

*『APERTURE MASTERS OF PHOTOGRAPHY 6 ALFRED STIEGLITZ』(1989、Aperture)

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